太平洋戦争開戦前夜

太平洋戦争開戦前夜1937年に勃発した日中戦争(支那事変)において、日本軍は、北京や上海などの主要都市を占領し、中国国民党の蒋介石総統率いる中華民国政府の首都・南京をも陥落させたが、アメリカやイギリス、ソ連からの軍需物資や人的援助を受けた蒋介石は首都を重慶に移し、国共合作により中国共産党とも連携して徹底した抗日戦を展開した。

9月3日、日本では、大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議され、9月6日の御前会議で「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と決定された。

太平洋戦争の決断を迫られた近衞は対中撤兵による交渉に道を求めたが、これに反対する東條英機陸相は総辞職か国策要綱に基づく開戦を要求したため、10月18日に近衞内閣は総辞職する。

11月6日、南方作戦を担当する各軍の司令部の編制が発令され、南方軍総司令官に寺内寿一大将、第14軍司令官に本間雅晴中将、第15軍司令官に飯田祥二郎中将、第16軍司令官に今村均中将、第25軍司令官に山下奉文中将が親補された。これらを自国に対する挑戦であると反発した日本はドイツ、イタリアと日独伊三国軍事同盟を締結し、発言力を強めようとしたが、かえって日独伊と英米などとの対立に拍車をかける結果となった。

同日、大本営は南方軍、第14軍、第15軍、第16軍、第25軍、南海支隊の戦闘序列を発し、各軍及び支那派遣軍に対し南方作戦の作戦準備を下令した。これを日本に対する最後通牒と受け取った東條内閣は12月1日の御前会議において、日本時間12月8日の開戦を決定した。近衞は日米首脳会談による事態の解決を決意して駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと極秘会談し、日米首脳会談の早期実現を強く訴えたが、10月2日、アメリカ国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示した。

11月20日、日本はアメリカに対する交渉最終案を甲乙二つ用意して来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使にハル国務長官に対し交付し以後の最終交渉に当たったが、蒋介石、イギリス首相チャーチルの働きかけもある中、アメリカ大統領ルーズベルトは、11月26日朝、アメリカ海軍から台湾沖に日本の船団の移動報告を受けた[3]こともあり、ルーズベルトは両案とも拒否し、中華民国・インドシナからの軍、警察力の撤退や日独伊三国同盟の否定などの条件を含む、いわゆるハル・ノートを来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使に提示した。

日本軍は、豊富な軍需物資の援助を受け、地の利もある国民党軍の組織的な抵抗に足止めを受けた。また、中国共産党軍(八路軍)の駆使したゲリラ戦術にも翻弄され、各地で泥沼の消耗戦を余儀なくされた。後を継いだ東條英機内閣は、11月1日の大本営政府連絡会議で改めて帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で承認された。

1941年4月から日本の近衞文麿内閣は関係改善を目指してワシントンでアメリカと交渉を開始したが、日本軍は7月2日の御前会議における「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」(対ソ戦準備・南部仏印進駐)の決定に従い、7月28日に南部仏印へ進駐した。

アメリカは太平洋戦争継続に必要な石油と鉄鋼の輸出制限などの措置をとり、イギリスも北部仏印進駐をきっかけに経済制裁をはじめた。以降、大日本帝国陸海軍は、12月8日を開戦予定日として対米英蘭戦争の準備を本格化した。これに対しアメリカは7月25日に在米日本資産を凍結[2]、8月1日には「全ての侵略国」への石油輸出禁止の方針を決定し、日本に対しても石油輸出の全面禁止という厳しい経済制裁を発動した。アメリカ、イギリスは日本に対して中国からの撤兵を求めた。